■東海道五十三次の内 関宿 鈴鹿国定公園の南山麓に位置する「関」が歴史に登場するのは、古代日本三関の一つ「鈴鹿の関(越前の愛発【あらち】、美濃の不破【ふわ】とともに三関と いわれた)」が7世紀にこの地におかれてからで、これが関の名の由来となり、古くから交通の要衝ででした。 江戸時代には、東海道五十三次の江戸から数えて四十七番目の宿場町として整備され、西の追分で大和街道が、東の追分で伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため参勤交代や伊勢参りの人々などでにぎわいました。 関宿は「壬申の乱」の舞台、「斎王群行の道」、一休禅師による「関地蔵開眼話」、さらには、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」など街道にまつわる話は実に多く残っており、天保14年(1843)の記録には、屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣2軒、旅籠42軒酒食店99軒があったと記されています。
現在、旧東海道の宿場町のほどんどが旧態をとどめていない中にあって、唯一歴史的な町並みが残ることから、昭和五十九年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 関宿の範囲は東西追分の間約1.8キロメートル、25ヘクタールに及び、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町屋200軒あまりが残っています。 保存地区は、木崎・中町・新所・北裏の4つの地区に大きく分かれますが、その町並みはそれぞれ特色のある表情をもっています。 中2階の町家が多く残る新所、社寺の境内が並ぶ北裏、旧鶴屋脇本陣が残る中町、軒の低めの町家が多い木崎の、4つの町並みが調和して変化のある景観を見せています。 関宿では、これら歴史的建造物の保存・修復につとめながら、新しいまちづくりに取り組んでいます。 ■関宿周辺案内図PDFファイル265kB
■伊勢鈴鹿の関 伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇) が皇位を争った壬申【じんしん】の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めたことによります。 延暦八年(789)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御【ほうぎょ】 や政変などが起こるたびに関が固められました。鈴鹿関の位置や規模、当時の「関」の様子などははっきり とわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられています。 中世の関一帯は伊勢平治の流れを汲む関氏の所領で、旅人や近在の人々の信仰を集めた地蔵院には 門前町が形成され、この集落そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになりました。 この関地蔵を中心に次第に宿場町が整備されていくのであり、現在見られるような町並みの基礎 が築かれたのは、天正11年(1583)に関盛信が中町を町建てしたときにさかのぼると考えられています。
■関宿の町屋の特徴 関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数をしめます。 平入【ひらいり】の二階建てが一般的ですが、二階前面を土壁で覆った塗籠【ぬりごめ】のものが目を引きます。
▼出格子と幕板【まくいた】 屁の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る露除けです。座敷の前の出格子窓は、明治時代以降に取り付けられたものです。 ▼ばったり【揚げ店・店棚】 店の前に取り付けられた、上げ下げができる棚のこと。商品を並べたり、通りを通る人が座ったりしました。 ▼馬つなぎの倭金具【わかなぐ】 玄関の柱に打ち付けられた馬をつないだ環金具。土台などの低い位置にあるものは、牛をつないだものです。 ▼虫籠窓【むしこまど】 町屋の正面二階にある漆喰で塗籠【ぬりこ】た堅格子窓のこと。 関宿にはさまざまな形の虫籠窓があります。
■町屋の細部意匠 関宿の町屋には、屁下の幕板、軒の持ち送り繰形、二階の虫籠窓や漆喰細工、起【むく】り屋根、格子、建具など、細部の意匠に工夫されたものが多くあります。特に漆喰細工や細工は、子孫繁栄・家運長久などを願って職人が技をこらして作ったものです。こうした様々な細部の意匠は、多くの人々が行きかった宿場町の町屋にふさわしいものといえます。